自分と闘うことなく愛してほしい

よく、病と闘う(闘病)という言葉を聞くけれど、私はその表現に違和感を感じていて、言葉として好きじゃないんです。



私は誰かと何かと争うこと、闘うことがとても苦手です。
こんな話があります。
余命宣告をされるような状態から、奇跡の復活を遂げた人にはある特徴があったという研究調査があり、それによると・・・
何としても治そうと力んだだり、病気をまるで敵のように思い闘ったりする人は回復しにくいに対して、ただあるがままに病気であることを受け入れ、その状況の中でも感謝したり、心穏やかに病気と向き合える人は奇跡的に回復を遂げるということがわかったそうです。



この話はとても納得でした
私は、どんなときも、大切な自分の心とカラダと闘うことは絶対にしたくはないんです。
たとえば、頭が痛い、おなかが痛い、熱が出る、咳や鼻水が出る・・・そんなふうにカラダに現れる不調。
あるいは、心がザワザワする、落ち着かない、不安になる・・・そんなふうに心に現れるサイン。
私は、カラダや心に現れるものには、自分へのメッセージがかくれていると思うんです。
たとえば・・・
・食べ過ぎ飲み過ぎに氣をつけて
・そんなに無理しないで
・なにか我慢してない?
・ちょっと頑張りすぎだよ
・ひとりで抱え込まないで
そうやって、心やカラダは、いつだって何かを伝えようとしてくれているんです。


不調や病気は悪者じゃない
だからこそ、その懸命なメッセージをスルーしたり、薬でおさえたりするのではなく、症状や状態とちゃんと向き合って、習慣を見直し、改善のヒントを見つけることが大切だと思います。
もちろん、放っておけない大きな病気が隠れていることもあるから、慎重に見極めることも必要です。
けれど、だからこそ、心やカラダのほんの小さなサインに氣づける感性が、ますます大事になってくるんじゃないかなと感じています。
不調や病気は、決して”悪者”じゃありません。
たしかに、つらくてしんどいときは、悪者のように感じてしまうかもしれない。
けれど、それは氣づいてほしい、改めてほしいと、私たちに教えてくれているサインでもあるんです。
自分のことを守ろうとして、不調となり、病気というカタチで知らせてくれている。
そう思えば、不調は”味方”なんだと、感謝の氣持ちすら湧いてきます。
私を支えてくれる愛しき臓器たち
私たちのカラダは、生まれたときからずっと、休むことなく、息をして、血をめぐらせ、黙って懸命に働き続けてくれている。
臓器も、細胞も、すべてがそれぞれの役割を果たしながら、お互いを整え合い、私という命を支えてくれているんです。
だからこそ、不調があるとき、病気になったときは、闘うんじゃなくて、やさしく寄り添うことが大切。
私は、このカラダは”神さまからの借りもの”だと思っています。
だからこそ、命が尽きるそのときまで、丁寧に、大切に使わせていただきたい。
そして、どんなときも、自分のことを雑に扱うことなく、やさしく、丁寧に扱ってあげたい。



過去の私は、いつも自分の氣持ちを置き去りにしてガマンしてがむしゃらに頑張ってきたからこそ、切に思うんです。


もちろん生きていると、いろんなことがある。
そのたびに、いろんな感情が湧いてきます。
辛い、苦しい、悲しい、しんどい・・・。
そんな感情も、押し込めることなく、ちゃんと出し切って、受け止めてあげること。
そうかそうか、よしよし、大丈夫、大丈夫、そんなふうに、自分で自分を抱きしめてあげる。
そしていつもありがとうって、心から自分を大切に思えたなら、きっと心もカラダもその想いに応えてくれるはずです。
もっともっと、自分ファーストでいい
私は、自分のカラダに意識を向けるようになってから、とてつもなく愛おしく感じるようになりました。
毎日、文句ひとつ言わず、黙って働き続けてくれるこのカラダ。
そのことを思うと、自然と感謝があふれて、涙が出てきます。
だから、どんなことがあっても、自分と闘うことなく、世界でいちばん大切にしてあげようと思っています。
自分のことを全力で大切にできたら、きっと、他の誰かのことも、心から大切にできる。
だからこそ、まずは「自分ファースト」でいい。
私はそう思うんです。